「キャンプに行ってみたいけど、不自由な身体だからな…」
「車椅子のパートナーにアウトドアを体験させたいけど、難しいよな…」
テレビやSNSでキャンプを楽しむ誰かの姿を見て、そんな風に思ったことはありませんか?
僕はそう思っていました。
山の中に建てる自分の城。
済んだ空気のなかで食べる格別のメシ。
星空とたき火の静寂に包まれた夜。
きっと楽しい。
きっと楽しいけれど、現実には「車椅子」という壁があって…
申し遅れましたが、当ブログ管理人のmasaです。
僕の妻は40歳を目前に車椅子での生活に成りました。
40年近く健常者として生きてきたワケですから、突如として変わった日常は当たり前に苦労の連続。
ストレスと将来への不安、ギスギスした絶望の日々。
そんな折に思い立ったのが、健常だったころに趣味としてはじめようとしていたキャンプでした。
結論から言えば、妻は現在、立派な「車椅子キャンパー」として活動中。
そして、キャンプを通して僕たち夫婦は笑顔を取り戻せたとも、確信しています。
このブログでは、車椅子ユーザーである妻とのキャンプ事情。
そこに至る経緯や、実践してきたキャンプのアレコレを記していきます。
「こんな身体じゃキャンプなんてできないよね」
そんなあなたが、一歩踏み出す助けになれたら。
そう願いを込めて。
見出し2 突然の車椅子生活
40歳を目前にした2020年代。
妻の生活は一変しました。
突然の入院。7ヶ月の闘病生活。
家に戻ってきたとき、妻は「自由に動く手足」を失っていました。
病名は「ランスアダムス症候群」
病気ブログではないので詳しくは省略しますが、簡単に言えば身体が意図せず震えてしまい、歩いたりするのが難しくなる病気ですね。
当時は「ようやく退院したわ」とホッとしていたものですが、本当に大変だったのはそこから。
「それまで普通にできていたことができない」
その影響は本人のみに関わらず、共に暮らす人間にも大きな変化と困惑をもたらします。
家に手すりをつけ、段差を排除する。
食事を作り、入浴を手伝い、常に転倒や病態の悪化に怯える。
「介護疲れ」なんて言葉は一般的にあるけれど、その苦労は一般的じゃない。
眠りの浅い日々がしばらく続いたことをよく覚えています。
そしてその変化に僕よりストレスを感じているのは、言うまでもなく妻本人。
手すりを伝わないと歩くことも難しく、家の中でさえ行けない場所がある。
ご飯を作ることもままならなくて、動物のようにお風呂も世話される。
「ちょっとコンビニ」なんてもう叶わない夢で、ラプンツェルのように室内で管理される日々。
それまで不自由なく生活できていた人間にとって、かかるストレスがどれほどのものか、僕にさえ想像しきれていないものでしょう。
だから当時の妻の精神状態は、本当に劣悪なものでした。
些細なことで怒ってしまうし、そのたびに家を出ていこうとして転ぶ。
薬を拒絶し、眠ることも拒絶し、僕の言葉だって拒絶する。
人に会う気力もなく、訪問看護を追い返すなんてこともありましたね。
日々ヘイトをまき散らし、落ち込み、暴れ、少し眠り、また泣いて、少し笑って、またふさぎ込む。
ムリもない、というより、僕だったらもっと絶望していたかもしれません。
それらを受け入れて生きている妻は、僕よりもっと強い人なのでしょう。
健常だった自分と、そうじゃない自分のギャップ。
外に行くには車椅子に乗り、好きなように道を歩くことも叶わない。
安心するハズの家内でさえ、自由気ままに居ることが難しい。
「普通」を奪われた妻の姿は痛々しく、見るに堪えないものでした。
見出し2 思い立った選択肢
そんな生活に辟易していたころ、思いついたのがキャンプ。
「不自由なのになんでキャンプ?」と感じるかもしれません。
理由としては3つありました。
1やってみたかった
2現実逃避
3リハビリの一環
見出し3 やってみたかった
じつはキャンプに関しては入院前にいちどだけ実行していました。
言い換えれば入院直前につばをつけた趣味なんですね。
デイキャンプだったんですけど、楽しかった。
これからギアを揃えて、本格的にはじめよう、なんて言っていた矢先の出来事だったワケです。
ていうか、妻はソロでやる気でしたからね。
だから、せっかくはじめたキャンプを断念したくなかった。させたくなかった。
病気になったからって、やろうとしていた事を諦めたくなかった。諦めてほしくなかった。
そのときは、確かに笑っていたから。
日常を失った妻に、「キャンプなんてもう行けないよ」とは言いたくなかった。
「続き」をやりたかったし、やらせてあげたかった、というのが正直なところです。
見出し3 現実逃避
なんてキレイ事だけじゃなくて、キャンプに行こうと思ったのは現実逃避でもあるんです。
当時の我が家は深刻なほどマイナスのエネルギーに満ちていて、妻はもちろん僕も疲弊していました。
苦しむ妻と、直視できなくなってきていた僕。あと太っているネコ。
ショッピングでもと街に出ても、慣れない車椅子の操作に、好機の視線。
人の助けを借りようにもふさぎ込む妻、家の中だけで、ふたりだけで、じわじわと世界が腐っていく感覚。
暗い雰囲気の家にいるのがイヤになってたんです。
だからもういっそ、過酷なアウトドアとか行っちゃおうかなって。
大変な状態なのにもっと大変なレジャーを企画する。
頭沸いてんのかって感じですけど、当時はそれが救いでもあり、逃げでもあったんです。
人里離れる仙人みたいな感情。
実際キャンプに行こうってなってからは「どこに行こう」とか「どうやって行こう」とか、そっちの話で気が紛れていたものです。
「妻を喜ばせるため」なんて言えば聞こえはいいですが、たぶん誰よりも僕自身が現実から目を逸らしたかった。
その現実逃避に妻を付き合わせた、と表現が正しいかもしれません。
見出し3 リハビリの一環
「現実逃避」って言ったあとだとアレですが、リハビリにもなるかなっていう想いもありました。
車椅子でキャンプなんてやったことなくても、一筋縄じゃいかないのは想像できます。
でも、だからこそ「日常のなか車椅子でなにかをするハードル」はグンと下がるんじゃないかなって。
キャンプできるほど体力ついたら家の中とか楽勝になるでしょっていう毒をもって毒を制す精神。
当時の妻は人にも会えないほどふさぎ込んでいましたし、それなら人に会わないキャンプで、自然の中で、ちょっとずつ心も身体も立ち直っていけたらなと。
地方の病院で静養するみたいな。田舎に帰って英気を養うみたいな。そんな思考。
今でこそ妻は明るくなり、社会性も取り戻しました。
キャンプという荒療治がその一助であり、スタートになったハズです。たぶん。きっと。おそらく。
見出し2 はじめての車椅子キャンプを振り返って
そんなこんなで「えいっ」とはじめたキャンプですが、最初はもう当然しんどかった。
車椅子を想定したキャンプ場なんてほぼないし、行ってみたら想定外の問題も山ほど出てくる。
事前準備から実行、帰宅まで、ヘロヘロになったのをよく覚えています。
そして僕よりもヘロヘロになったのが妻。
車椅子なのはもちろんのこと、入院で体力もなくなっています。
悟飯がいきなりピッコロに置き去りくらったようなもん。
帰宅した瞬間、妻は玄関で失神するように眠りましたからね。酔っ払いみたいに。
いま思えば「よく◯ななかったな」っていうくらい。冗談抜きで。
当然1回のキャンプで慣れるワケもなく、それから2度、3度と改善しつつ、そのたびに車椅子キャンパーとして成長していく妻。
最初こそてんやわんやでしたが、人間やればできるもので、今では帰りに観光だってできますし、なんなら妻なんて友だちにキャンプのアドバイスするくらいになりました笑
こうして書いてみると懐かしく、同時に「よく実行したな」と振り返るばかりです。
見出し2 車椅子キャンプのメリット
当然ですが、健常者に比べて車椅子でのキャンプは大変なことも多いです。
けど、ただ不便なだけじゃなくて、良いところもちゃんとあると感じています。
それどころか、今では「車椅子の人って遊園地とか行くよりキャンプの方が良くね」みたいな心境になってます。
1気楽
2平等
見出し3 気楽
車椅子ユーザーに限ったことじゃないんですけど、キャンプは気楽です。
場所にもよりますが、人の少ないキャンプ場や貸し切りキャンプなら他人の目を気にすることがないんですね。
一般の方にとってもそれがキャンプの魅力でしょうけど、車椅子ユーザーにとってもそれは同様。というかそれ以上かもしれません。
僕たちだけかもしれませんが、車椅子ってけっこう気を遣います。
電車やバスはもちろん、商業施設やイベント、人の多いところや狭い通路だと「邪魔になってないかな」とか考えちゃうし、人目も気になってしまいますよね。
でもキャンプだとそういう事はないんです。
フィールドは広いし、誰かに気を遣うこともない。
もちろん他のお客さんがいるキャンプ場だと「車椅子でキャンプ?!」みたいな目で見られることはよくあります。
が、自分のサイト(区画)に戻ればそれもないですし、いくつかのキャンプ場に行けばそもそも人がいないお気に入りの場所もできてきます。
「のびのび過ごせる」というのは車椅子キャンプにおけるメリットだと感じています。
見出し3平等
キャンプって平等なんです。
健常者にとっても、車椅子ユーザーにとっても。
「公平」じゃないですよ。
「平等」なんです。
飲食店やショッピングモールなどの商業施設。街というのは「公平」にできています。
穿った見方をすれば「棲み分け」でもありますね。
健常者はこっち。障がい者はあっち。という感じで。
おかげで車椅子ユーザーでも公平に恩恵は享受できていますし、それはとてもとてもありがたい限りです。
だから弱者として優しくしてもらえることもあるし、助けてもらってるし、生きていける。
ただ、それ故に障がいが区別されている、という側面もあると思うのです。
「健常者」と「障がい者」というのは社会の仕組みによって相対的に浮かび上がってるものなんですよね。
車椅子ユーザーをはじめとした障がい者に「わたしたちは弱者なんだ」っていうのを強く認識させてくるのも、優しく整備された社会だったりします。
自然のなかに行くとそういうことはありません。
平等にフィールドが与えられて、そこでいかに快適に過ごすか、そこでいかに楽しむかは個人に依る。
極端なことを言えば「キャンプに不慣れな健常者」と「慣れてる車椅子キャンパー」だったら後者のほうが快適に楽しく過ごしていたりする、というワケです。
比べたりマウントをとるものでもないのですが、五体満足な一般人より片腕の愚地克美のほうが強い、みたいな話ですね。
ファミリーはファミリー向けのキャンプを追求します。
徒歩のソロキャンパーはそれに見合った計画と準備をします。
それと同じで、僕たちは車椅子キャンプに特化するだけなんです。
車椅子に合ったフィールドを探して、快適に過ごせるギアを厳選する。
自然って誤魔化し効きませんから、やったらやったぶんだけ技術が身について、誰であろうと楽しめるようになる。
整備された街じゃないからこそ、「健常者」と「障がい者」という垣根はないし、自信もつく。
「楽しもう」と思える人が楽しめる。健常者だって、楽しめない人は楽しめない。
「平等」というのは、車椅子キャンプにおけるメリットかなと感じます。
見出し2 車椅子でキャンプに行こう
もういちど、最初の質問をしますね。
「キャンプに行ってみたいけど、不自由な身体だからな…」
「車椅子のパートナーにアウトドアを体験させたいけど、難しいよな…」
そんな風に思ったことはありませんか?
月並みな言葉ですが、やりたい事があるなら、病気なんかで諦めないでほしいと僕は願います。
羽のない人間が快適に歩ける街を創ったように、歩けない人間だってキャンプ場に快適な場所を創ればいいんです。
もちろん大変なことはたくさんあるけれど、このブログを参考にしたら、きっと僕たちよりは上手にできるハズです。
1度だけ隣になったおじさんキャンパーが言ってた言葉。
「どんな状況でもさ、楽しまなくっちゃ」
さあ、車椅子でキャンプに出かけよう。
コメント